2013年 07月 03日
更科
麻布十番商店街の一角にある「総本家更科堀井 麻布本店」です。
創業が寛政元年、調べれば調べる程、その歴史に圧倒されるばかりです。
寛政元年(一七八九年)、そば打ち上手として知られた信州の反物商、布屋太兵衛は、領主 保科兵部少輔の助言で、そば屋に転向。麻布永坂高稲荷下に「信州更科蕎麦処」を開店いたしました。
明治八年(一八七五年)、名字必称の令により、先業にちなんだ屋号「布屋」改め「堀井」を名のり、五代目より堀井太兵衛として伝統の更科そばを今日に伝えております。
更科そばはその上品な風味ゆえに、古くは江戸城や大名屋敷にも出入りを許され、御前に供する名誉も賜り、そば好きの江戸っ子達にも親しまれてまいりました。
また通人に好まれる当店自慢の「色変わりそば」はさらしなそばに旬の素材を打ち込み、四季折々の味と香りを堪能させるそばでございます。
創業二二二年、変わらぬ伝統の味を、八代目堀井太兵衛の「総本家 更科堀井」でお楽しみ下さい。
(更科堀井 公式HP(http://www.sarashina-horii.com/)より)
堀井家の伝によると、創業は寛政元年(1789年)。初代は、信州特産の信濃布を商っていたのがそば屋に転じたもので、領主・保科家の江戸屋敷から程近い麻布永坂町に店を構えた。看板は「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」。「更科」とは、信州そばの集散地だった更級の「級」の音に保科家から許された「科」の字を当てたものと伝えられる。
当時から大名屋敷や有力寺院などに出入りしていたが、明治時代半ばの最盛期には、皇后や宮家などにも出前を届けていたという。看板商品は白いさらしなそばと変わりそば。それらに使うそば粉の挽き方を改良し、現在のさらしな粉に近い粉にしたのも、この店の功績とされる。
また、この時期、土産のそばを目籠詰めにして売り出して、こちらも麻布永坂「更科」名物として大いに評判になったという。各地に「更科」が増えたのは、この永坂の繁栄にあやかろうとしたもの、という説が有力のようだ。しかし、さしもの名店も昭和初期の恐慌のあたりから家産に陰りが見えて、昭和十六年、ついに廃業に追い込まれるに至った。良造さんは(現八代目当主)「親父が芸者遊びに耽って、店まで潰してしまったそうです」と笑うが、そもそも戦時下で、出資していた銀行も倒産するなど、時代の嵐に飲み込まれてしまった側面も大いにあるようだ。
戦後、店は再建されたが、外部の人たちも入った会社組織となっていたことから、「永坂更科」や「布屋太兵衛」の登録商標は堀井家の手を離れることとなる。さまざまな曲折があったそうだが、昭和五十九年十二月、良造さんは代々の地である麻布を離れることなく、麻布十番商店街の一角に「総本家更科堀井」を開店する。
江戸時代中期以来二〇〇年余に及ぶ家業の伝統を、創業の血筋を引く堀井家の手で再興したいとの思いからの開店であった。ちなみに、現在、麻布十番界隈には三店の「更科」があるが他の二店はまったく別の経営である。
(岩崎 信也氏 執筆 柴田書店「そば・うどん 第31号」より)
先人達が築き上げてきた歴史に思いを馳せつつ、今回は「さらしな」を頂きました。
ほのかに香る蕎麦の上品な甘味とつゆの深みが相まって、とても美味しかったです。
最後は蕎麦湯も頂き、身も心も温かくなって癒されました。
末永く愛されるものを創り、私を支えてくれた人達に出来るだけ多くの恩返しが出来る様に、
これからも頑張ろうと思います。
御馳走様でした。